刺しつ刺されつ



最初にちょっと中島らもの作品の中で思い出した物があったのでちょっと書き留めます。


「ある少女が中国で犬料理を出されてから肉が食べれなくなった。
 生きている物を食べる、という行為に嫌悪感を抱くようになったためである。
 野菜ばかりを食べて少女は生きていたが、ある日、植物も生きているという事に
 気づいてしまい、野菜すら食べれなくなってしまう。
 餓死寸前までいった少女は最後に父親に説得され、食事を取れるようになって 一命を取り留める。」


というお話。ものすごく拙い要約だけと内容は間違ってないと思う。


で。このお話がなんなのかというと、
人は食べないと生きて行けない。という事。
つまりは何かを殺さないと生きていけない。
日々他者を捕食し、二酸化炭素を放出し、ゴミを出し、何かを犠牲にしつづけて生きている。


同様に誰も傷つけないで生きるなんて人間同士の共同体で生きている以上不可能だ。
「傷つけないように振舞っている」事で傷つく人間ってのもいるんだ。
「誰もを傷つけたくないし、傷つけられたくない」なんてのは、
無人島や山ごもりでもしなきゃ不可能だ。これは明らか。


重要なのはここ。
「誰も傷つけないで生きるなんて人間同士の共同体で生きている以上不可能だ。」
ってのは当然の答えなんだということ。
(追記)「誰からも傷つけられないで生きるなんて
    人間同士の共同体で生きている以上不可能だ。」もですね。
    重要なのにー、抜けてました。クフッ。


これを自覚する事とそれを受け止める覚悟。
人社会で生きていく上でこの二つは自然と備わる物だと思う。
そして、覚悟をした後にどう行動するかは各個人の判断に委ねられると思う。


傷つけた分、誰かの傷を癒そうと善行するのもアリ。
そういうもんじゃん、と開き直るのもアリ。
傷つける覚悟をするのが嫌ならそれこそ無人島へ行く、という覚悟もアリだと思う。
それが良いか悪いからは個人判断に委ねる。そこは十人十色。


だが、1+1=2がであるという「誰もがそう思う事」、つまりコミュニケーションを
成り立たせる上での「決まりごと」、を覆そうというのはまずい。
1+1=3である権利もなければならない。って主張をしだすと
人同士の言葉のコミュニケーションの崩壊を起こします。
もし1+1=2であると知らないならそれは無知なだけだし、
無知を棚に上げて「1+1が3である権利もある」と声高に叫ぶのはちょっと考え足らずだと思う。


とまぁ、ここまでが「それは違うだろー」という突っ込み。
で、続いてネタにマジレス問題。


まぁこれは自分もよくひっかかるおっちょこちょい&アホたれなんですが、
そこに書かれて事が何かのメタファーだったり、同意と見せかけて皮肉だったり、
逆に批判と見せかけて賞賛だったり、そのまま正直に読むと
書き手の意図している事を汲み取れない。というヤツですね。


問題は、これを「楽しむ人間」と「快く思わない人間」がいる、という事で、
楽しむ人間からすれば「プ、ネタにマジレスカコワルイ。」となるし
快く思わない人間からすれば「ネタとわからないネタはネタじゃない。後釣りイクナイ」という事に。


どっちが正しいとかじゃなくて、このあたりは本当に好みの問題かな、と。


ただ、個人的な意見を言わせて貰うと、他人を批判する人間が
その対象となる文章の意図を読み取れていないのに、
内容自体を批判するのはちょっと浅すぎる気がするな、と。
読みづらい、とか、表現方法が回りくどい、というなら分かるのですが。


この意図を汲み取れてないのに批判、っちゅーのは
自分もやっちまう事があるんで自分への反省文でもあるんですがね。
批判をする時にはまず鏡を見てからにしないとね、というお話。